2010年11月2日火曜日

moderne


今日の「東京詩」のプレゼンでは、
「いきものがかり」の「SAKURA」が、この授業では初登場しました。
この曲、「東京」という言葉は1度も出てきませんが、
意識されているのは明らかに東京です。

ご存知の方も多いでしょうけれど、
「いきものがかり」は男男女の3人組みで、
同級生である男性2人が小学生の時担当した「生き物係」から、
そのグループ名がきているということのようですが、
このネーミングは、たしかに少し面白いですね。
意外性があるし、「神がかり」なんかも連想させるし。
(というような意見が、昼ご飯を一緒に食べた同僚からも出ました。)

ただ、この「SAKURA」という曲の、特に詞は、
なんとも古めかしいものです。
言葉もそうですが、とりわけ語られている物語の古めかしさと言ったら!
例の、都会に出る男と、彼を思い続けて「故郷」で生きる女、というやつです。
しかも彼らは3人とも神奈川出身で、
途中に出てくる「春の大橋」は、厚木と本厚木の間だとか。
それって、新宿まで1時間かからないでしょ??

まあね、「桜」を持ち出してるところですでに、
古さに寄り添ってるわけですけど、
実際歌詞は、「これ演歌じゃ?」という箇所もあります。

でもこういう言い方をすると、
「演歌じゃ悪いわけ?」という声も聞こえてくる気がします。
わたしは、ポップスには、演歌であって欲しくないと思っているほうです。
というのは……

要は、演歌は様式であり、
一方ポップスは、時代を切り開くものであって欲しいと思うからです。
様式を壊し続けることが、モダンの本質であり、
ポップスはモダンであるべきだと考えているのです。
これって、ないものねだりでしょうか?

Il faut être absolument moderne.
絶対にモダンでなければならない。

とはランボーの一節ですが、
それこそが、たとえばバッハの深さは望めないポップスの、
ポップスだけが持つ価値だという気がしています。
バッハは、色んな演奏が試みられ、
それがまたたいていは面白いものだと思います。
でもやはり、「バッハの現代的解釈」は、
ポップスから湧きあがる現代性とは違うものです。
まあそんなふうに、わたしは思っているわけです。

……授業の話から、自分でも思わぬことを書いてしまいました。
でも音楽って、ほんとに魅力的ですよね。

(『扉をたたく人』という、9.11後のNYを舞台にした映画で、
不法滞在のために収監されたシリア移民の青年と、
彼と心を通わせる主人公が、
面会室のガラス越しに、胸や机をジャンベの代わりに叩く場面があります。
「音楽がいるんだ」という青年。
派手さはないけれど、ちょっといい場面です。)

            ◇

「東京詩」ゼミのみなさんへ。
今週の宿題について連絡します;

・先週に続いて、p.196まで読んでくる。
・p.401 あたりを参考にして、「コンビニの詩」を書いてくる。
 これは、経験に基づいて書けますね?
 「わたしにとってコンビニとはなにか?」
 あるいは、
 「現代においてコンビニは何に似ているか?」
 といいう感じでお願いします。

Bon courage !