2011年10月3日月曜日

『島の水、島の火  Agend'Ars2 』


今日は楽しみにしていた新刊詩集、
管啓次郎 『島の水、島の火  Agend'Ars2   アジャンダルス 2
を読みました。

http://sayusha.com/sayusha/903500560.html

管さんは、今回の第2詩集について、
「追悼の色彩」(あとがき)という言葉を使っています。
自分の追悼の気持ちを、押し隠して、書く、
ということも可能かもしれません。
でも管さんはそうはせず、
ずいぶん深い、まったく光が差し込まないようなところから、
出発し、
もう1度(もう何度?)、言葉を呼び寄せています。
そしてその言葉は


雨滴は太陽に挑むことができず
砂粒は風にけっして勝てない
そのように言葉はひとしずくの雨、ひとつぶの砂として
蒸発を受け入れ、制御できない飛行を甘受する
それでもこの雨滴に喉をうるおし
この微細な砂粒にしがみつく虫がいるだろう
われわれは虫だ、われわれはあまりに小さい
すべてのわれわれが虫だ、あまりにはかない
この小さな体と感覚器の限界に捉われながら
世界を語らず、ただ世界の光と雨に打たれて生きている  (Ⅰ)

これは決意と言っていいのでしょう。
そしてこの決意から、この詩集は始まるわけです。

もちろん、直截な追悼ではない詩もあります。
引用したい詩は多いけれど、たとえば;

断崖を愛する心には二つの方向があった
それを聳えるものと見るかそれとも奈落と見るか   (Ⅹ)

「森に入ってはいけない、お前の心が暗い時には」
それでその朝ぼくはすべての暗い考えを捨てて
森へゆく祖父やオジたちについてゆくことにした
かれらは舟を探しにゆく、このカウリの森の深いどこかに
今年のワカ(カヌー)が埋まった一本の巨木がある
そのまっすぐな樹木を伐り出し
村に持ち帰ってから舟を彫り出すのだ   (ⅩⅩⅩⅥ)

すべてを運動とプロセスにおいて体験しよう
絶えず変化する私/私たちの devinir に賭けよう
それが créolisation(クレオール化)、気象のように、海流にように  (ⅬⅦ)


世の中には、うまい文章を書く人がいます。
それはそれで羨ましいことです。
でもこの詩集の日本語は、
そういうものとは違う気がします。
そうではなく、立ち止まろうとする日本語の肩を掴んで、
揺らしているのです。
もし、立ち止まりたくないなら、
ぜひ読んでみてください。