2011年11月23日水曜日

『憎しみ』を10回見る


『憎しみ』は、フランス映画としてはかなり知られた作品だし、
ご覧になった方も多いでしょう。
「荒れる郊外」を予見する映画としても、評価が高いし。

そしてこの作品は、
「フランス映画ゼミ」でも「ワールド映画」ゼミでも取り上げているので、
わたしとしては、少なくとも10回以上は見ていると思います。
でも……

それでも、やっぱり毎回発見があるんです。
まったく気づいていなかった点にはっとしたり、
モヤモヤ気になっていた点が突如はっきりしたり。

(映画は、最低2 回見ろ、と言いますが、同感です。
ストーリーが分かって、そのあとじゃないと、
なかなか細部に注目するところまでいきません。
単純な例でいうなら、登場人物の部屋が映し出される場合など、
ほぼ間違いなく、壁に貼られたポスターなどに、
なんらかの「意味」が込められているようです。

それからもちろん言葉。
今はフランス語の映画についていうなら、
やっぱり1度では、聞き取れないところも多く、
字幕並みの理解になりがちです。
でも、字幕は結局「要点」であり、
細かいニュアンス切り捨てられています。
どうしても、複数回見て、セリフのデリケートな部分を感じる必要があります。)

『憎しみ』を昨日また見て、
今までで1番よく分かった気がしました。
オープニングのクレジットの背景のデモ、
その光景とその後の「物語」の接合の感じから始まって、
ユダヤ系、アラブ系、アフリカ系、
主人公たち3 人の心理も、はっきり分かった気がしました。
また何度か、ほとんど唐突に、
しかもストーリーには絡んでこない人物によって語られる突飛なエピソード(たち)も、
なにかとてもしっくりきました。

そして今回、わたしにとって1番新鮮だったのは、「名前」の扱いです。
これはただ見ていても気づくことですが、
主人公たちの「名前」の示し方は、とても凝っている、というか、
映画文法からはやや(わざと)逸脱したものです。
サイードは、自分の名前を警察車両に書きなぐり、それがアップになり、


ヴィンスは、自分の名前の指輪をはめ、それがアップになり、


ユベールは、ボクシングの試合を予告するポスターに写り、それがアップになります。

サイードが、パリに金を返してもらいに行く相手は、アステリックス。
彼の部屋を探してならしたインターホンに応えた女性は、ベアトリックス。
また3 人がもぐりこんだパーティーで、
彼らが白人のギャルソン呼ぶときは一斉に「シャルル」。
ヴィンスは決して「ヴァンサン」じゃありません。
そしてとりわけ印象深いのは、3 人がクルマを盗む途中に現れた酔っ払いのケースです。
なんやかやと言い合う中で、サイードは彼に尋ねます、名前は? と。
すると(ヴァンサン・ランドン扮する)酔っ払いは、大声で、
Je m'appelle ...
と怒鳴るのですが、結局彼は名乗らないのです。
つまり映画は彼に、名前を与えません……

第一感、この酔っ払いは監督の自画像、という気がしました。
彼はこの映画を作るけれど、そして彼らの「味方」ではあるけれど、
白人で、映画監督で……
映画の中で自分に名前を与えないことで、
自分の位置を示しているように感じました。酔っ払いだしね。
(……と書きましたが、これは思いっきり想像です。
きちんと調べたわけではありません。)

いかがでしょう、
みなさんがご覧になった時の印象と、違うでしょうか?