2012年1月16日月曜日

ジャスミン革命、1年


チュニジアでのジャスミン革命から1年経ち、
色んなところで「あれから1年」みたいな特集が組まれています。
結論として(今さらながら)思うことは、「革命後」の難しさです。

授業で「フランスの歴史」みたいな話題になるときには、
とにかく、フランス革命のbefore と after で分けて考えましょう、
みたいなことを言います。
明治大学理工学部の場合、受験科目に世界史がないので、
彼らの世界史の知識は総じて薄めです。
(世界史受験してない学生は、ほとんどみんなそうだと思います。)
で、とりあえずそんな風に言ってから、before と after それぞれのことを、
もう少し話すこともあります。
ただ after の「もう少し」のところは、
話していても、届いていない感じがすることがよくあります。
まあ、説明も下手なんでしょうけど。

フランス史を2分する「フランス革命」、という言い方は、
間違ってないとは思います。ただこの革命、
最後にその果実をもぎ取ったのは、皇帝ナポレオンだと言うこともできます。
皇帝? 革命後に?
めちゃめちゃ違和感があります。
そんなものを呼び込むために、バスティーユを襲ったわけでもないでしょうに。
でも現実はそうでした。

その後、戦争に勝てなくなったナポレオンは捨てられて、
再び革命が起きます。7 月革命(1830)です。
でも今回の革命が行きつくのは、なんと王政です。
これは驚きです。
この事情は、革命の主導者が立憲君主制を支持していたから、
と言えば聞こえはいいですが、
私利を図った政治家たちが、ルイ・フィリップを担ぎあげた、
とも言えるわけでしょう。

けれどやっぱり王政は長続きしませんでした。
今度は2 月革命(1848)です。
けれども、この革命後に行われた選挙では、
革命で活躍した労働者たちが支持する政党は、惨敗。
怒った彼らは6 月蜂起を起こします。が、これも鎮圧。
結局数年後には、なんとまたもや皇帝の登場と相成るわけです。
革命3 回やって、その後に皇帝です。
これはわたしじゃなくても、なんのこっちゃ!? と言いたくなるところです。

つまり、「革命後」が難しいんですね。

革命から1年経ったチュニジアでは、
観光客が減り、景気が(さらに)減速し、
失業者は80万~100万に達すると言われています。
そして初めての選挙で勝ったのは、経済の実務が得意な集団でした。
(ギリシャやイタリアも、そういう選択ですね。)

ただチュニジアのこの第1党、実はイスラム政党でもあります。
メディアによっては、このあたりを「反動」ととらえているものもあります。が、
この点については、1年前にここで書いたとおり、
この革命の「イスラム革命」という側面を考える必要があると思っています。
つまり、宗教改革です。
堕したイスラムを、本来のイスラムに戻そう、という気持ち。
これは、民主化革命という側面と、矛盾しないと思っています。

フランスでは、2人目の皇帝が捕虜になった後、
パリ・コミューンが起こります。
これはマルクスが、『共産党宣言』の中で、
とても高く評価したものです。
プロレタリア革命ここにあり、というわけです。

でもこのパリ・コミューン、持ったのは3 ヶ月ほどでした。
ティエールが、自分が作らせた城壁に阻まれながらも、
ヴェルサイユからパリに進攻し、
結局コミューンのメンバーを皆殺しにしてしまいました。

そういえば……

68年の学生運動に関わったある先輩の先生が、
学生たちが新宿を占拠したあの夜、
「R で始まる単語が頭の中で光っていた」
とおっしゃっていました。
「ま、翌朝になったら消えてたけどね!」