2016年9月18日日曜日

『くちづけ』

増村保蔵のデビュー作は、
1957年のこれでした。

『くちづけ』

80分に満たない短めの映画で、
主演は、翌年の『巨人と玩具』同様、
川口浩と野添ひとみです。

大学生の欣一。
バイト代は月8000円ほど。
父親は今、3度目の選挙違反で、
小菅拘置所に収監中。
当初、10万円(今の200万程度)あれば、
と言われていたが、
後にまだ申請できないことが判明する。
母親は、3年前に離婚して出てゆき、
今は宝石商として、
豪華なマンション暮らし。

画家のヌード・モデルとして働く章子。
月給は6000円ほど。
章子の仕事先には、有名画家もいる。
その息子は、彼女を金で買おうとするが、
うまくいかない。
父親は公務員で、ただし公金を使い込み、
今は小菅拘置所に入り、病気で苦しんでいる。
使い込んだ10万円を返せば、不起訴になるのだが、
その金はない。
母親は結核で、清瀬の療養所に入院中。
入院費は、(父親の逮捕に伴い健康保険を抜けたので)
月に12000円ほどかかる。

この映画には、産業ブルジョワは登場しない。
中で経済的に豊かなのは、まずは画家。
彼は、章子から搾取していることに頓着はしない。
芸術の中に閉じている。
そして、宝石商として成功している欣一の母もいる。

つまり欣一は、
商売人として成功したプチ・ブルジョワである母と、
政治思想を生きることを最優先させている父を持っているのだ。
そして欣一自身は、どちらにも共感してはいないものの、
どちらかといえば母親の側と親和性があるように見える。
将来のプチ・ブルだ。

章子の状況は、ほとんど戯画的だ。
病気の親を抱えて身売りする娘、といった、
あまりに紋切り型の設定に近い。
横領を犯した父親については、
ほとんど描写がなく、
旧いステレオタイプが使われていると言わざるを得ないだろう。
母についても、むしろステレオタイプな造形に思える。

こうした中で、欣一と章子が接近する。
学生である欣一の周りには、
ダンス、バイク、ジャズ、ビーチ、
などがあり、
章子は、欣一と付き合う中で、
こうしたものに出会ってゆく。
章子の個性は、それらを貪欲にむさぼるようだ。
ヌード・モデル、つまり彼女には、
裸以外に売るものがない。
なにか技能があるようには見えない。

エンディングにおいて、
章子は、欣一の母親にリクルートされそうである。
経済的に追い込まれた娘は、
やがてプリ・ブルに成り上がるだろう。

増村はここで、
なにを提示したかったのだろう?
アメリカ化、政治の無効宣言、搾取的芸術……
でもそれは、新しい日本、ということなのだろう。
つい10時間ほど前に見た、
『7月のランデヴー』1949と、似ていなくもない。
これは当時、日本公開されていないのだが。
ただはっきり違うのは、
『くちづけ』の主人公たちは、
結局、プチ・ブルになるだろう、という点だ。
(アフリカに研究に向かう若者たちとは、
かなり隔たっている。)
『巨人と玩具』でも、一応の資本主義批判はあった。
しかしそれでも彼は、
将来の資本主義の勝利と、
「勝ち組」としてのプチ・ブルを遠望していたように思える。
もしそうだとしたら、
それは、大きな限界だということになるのだろう。