2017年11月30日木曜日

「フランス1789年人権宣言における『市民 』観念と外国人 」

フランスは一般に、
「人権の故郷」と考えられることがあります。
それはもちろん、
あのフランス革命があったからです。
(一般に、と書きましたが、
とりわけフランス人自身が、
そう考えたがっている印象もあります。)

ただ、今ではもう、
そのフランス革命的な「人権」は、
少なくともその時点では、女性たちにも、植民地の人たちにも認められなかったわけで、
いびつというか、不完全なものだったことがわかっています。

ところで「フランス人権宣言」は、正確には、

Déclaration des Droits de l'Homme et du Citoyen
「人および市民の権利宣言」

です。で、気になるのは、
「市民」て誰?
どっからどこまでが「市民」?
ということです。
言い換えれば、
「人」と「市民」は別物なのか、
はたまた、
「人」と「市民」は、
この宣言が書かれた時点において、
実質的に同じ(普遍主義的な)地平にあったのか?
ということです。
そしてもし、後者でないなら、
フランス的な普遍主義なんて、
限定的普遍、つまり語義矛盾じゃね?
と、つねづね思っていました。

今日、たまたま、
まさにこの問題を論じている論文を見つけ、
すぐに読んでみました。
これです。おもしろかったです。

file:///C:/Users/owner/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bbwe/TempState/Downloads/B422-20090630-13.pdf


著者である菅原先生は、
かつて、「市民」=「国籍保持者」という立場だったのだけれど、
その後の研究の結果、
革命当時の「市民」とは、
もっと普遍的なものだった、
という考えの側に移ったと書かれています。
わたしは、法の専門ではまったくないので、
学問的な判断はできません。
でもやっぱり、
この菅原先生の「転向」は、
説得力があるし、賛成したいです。
論文では、
「革命思想のパラドクス」
という表現が紹介された後、
「市民」と外国人の関係を念頭に、こう書かれています。

(……)「市民」とそうでない者との間に境界線が設定されることによって、
国民国家を「ロックアウトする」結果がもたらされたのだ。

これって現代の話?
と、ふと思ってしまうのでした。

2017年11月28日火曜日

『グローバリズムという病』

『グローバリズムという病』(平川克美)は、
3年前に出た本なのですが、
最近読んで、今でも十分読む価値がある内容だと思いました。
読みやすいし。
(平川さんの書いているものは、あちこちで読んでいるので、
わたしにとっては、まあ、「まとめ」のような感じなんですが。)

グローバリゼーションは、
人類の歴史過程そのものであり、
これは止められないし、止めようとするべきものでもない。
けれども、
グローバリズムというのは、それとはちがって、
ある種の経済思想であり、
歴史的な必然などというものではない。
そしてこのグローバリズムの根底にあるのは、
「株式会社」という幻想である。
この幻想は、もう1つの巨大な幻想である「国民国家」と、
鋭く対立する。
グローバリズムを掲げる企業にとっては、
国家による規制(関税とか)なんかないほうが、
活動しやすいに決まっているから。
つまりグローバリズムは、
国民国家そのものの存在理由を脅かしているのであり、
それは「右」とか「左」とかいうレベルの、
いわば「幅」の問題とは根本的に違っている……

大事なことだと思います。

2017年11月27日月曜日

辺野古反対派に国際平和賞

このニュース、

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201711/CK2017112502000242.html

あまり報道されていないように思えます。


「火山のめぐみ」

毎年、画期的なシンポジウムを開催している管研究室が、
今年送り出すのは、

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「火山のめぐみ」

われわれが暮らす列島は火山の列島。
火山が生み育んだ土地に、人々は住んできました。
火山の島々は人に何を与えてくれるのか。
私たちはどんな生活を営み、神話を考えてきたのか。
日本、ポリネシア、フィリピン、アイスランドなどをむすびつつ、
火山島で生きることの意味を考えてみたいと思います。

http://pac-meiji.tumblr.com/post/167541268363/12月2日土中野キャンパス5階ホールにて無料

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今週の土曜日です。
入場無料!

2017年11月25日土曜日

『ブルックリン』

昨日に続いてアメリカ映画、

『ブルックリン』(2016)

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=I768tXFAI5I

1952年、
アイルランドの小さな町から、
1人の20歳の女性、エイリシュがブルックリンに向かいます。
仕事のない地元を離れ、
知り合いの神父が紹介してくれる仕事に就くのです。
船旅は辛く、
ホームシックは強烈でしたが、
イタリア系のトニーと仲良くなることから、
彼女はブルックリンと馴染み始めます。が、
そんな時、
故郷から、大好きな姉の死を告げる連絡があり、
帰郷することになります。そこでは……

アイルランド系アメリカ人と言えば、
J.-F. ケネディや、
レーガン、ビル・クリントンなどの大統領たちから、
ハリソン・フォード、ジョージ・クルーニー、ジョニーデップ、
マライア・キャリーなどのスターたちまでいて、
言うまでもなくアメリカの一部(約10%)になっていますが、
この映画は、いわばその典型の一つを描いているのでしょう。
そういう意味では、なるほどなあ、と思います。

どこかで見た風景だと思ったのは、
ヒロインが参加する、
生活困窮者のための慈善パーティーの場面。
やってきた大勢の年老いた男たちは、
かつてアメリカの橋を、道路を作った移民なのです。
でも今は仕事がない……
これって、石油ショック以降のフランスに似ています。
21世紀になってからも、なんなら今でも、
あの高速道路はおれたちが作った、みたいなセリフは、
耳にすることがあるわけです。

今ちょっとだけ調べてみたら、
実は原作では、
ホロコーストで親を亡くしたユダヤ人の先生が登場したり、
ヒロインが勤めるデパートで、
ついに黒人にも入店を認める、
なんていう場面があるようです。
(映画では、白人の客しかいません。)
もしこうしたことまで描かれていれば、
ずいぶんちがったブルックリンを感じることができたでしょう。
しばしば緑色(=アイルランド・カラー)の服を着たヒロインは、
しだいにブルックリンになじんでゆきます。
そして、イタリア系の彼氏もできるのです。
ブルックリンは、移民の街です。

弱点は、
人物の彫りが浅く、
ステレオタイプ的
(いじわるな女性店主、やさしい神父、病気の母親……)
であること、
時間がフラット過ぎると感じられること、
でしょうか。

『しあわせへのまわり道』

2014年のアメリカ映画、

『しあわせへのまわり道』(Learning to drive)

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=zM1ahFgRzeM

舞台はNY。
本に没頭し続けた女性書評家ウェンディが、
ある日、夫に別れを告げられます。
君は本とパソコンだけを見ていたね、
ぼくは幽霊じゃない、
というわけです。
まあ、まずいですね。
で、今まで運転は夫に頼っていたウェンディは、
心機一転を期して、運転を習い始めるのですが、
この個人レッスンを受け持ったのが、
インドから政治亡命してきたシーク教徒、ダルワーンでした。
彼は、シーク教徒であるがゆえに、
インド政府からテロリストの仲間とみなされ、
長く投獄されていたのですが、
2000年、つまり9. 11 で移民の条件が厳しくなる直前に、
アメリカの市民権を与えられたのでした。
でも、インドでは大学教員だった彼も、
ここアメリカでは、
「髭とターバンのせいで」
そうした職を得ることはできずにいます。
そんな彼が、ウェンディと出会ったわけです……

まさに「アメリカ映画」的という印象の映画で、
おしゃれで、ハートウォーミングで、
適度にあけすけで、
適度に困難も描かれて、
でもその困難は、どこか消費の対象となっていて……
という感じ。
まあ、見ていて「楽しさ」はあるんですけどね。

<以下ネタバレ>
ウェンディとダルワーンが、
結ばれることはありません。
2人は好意を持ち合っているし、
ウェンディは、妹から紹介された銀行家と、
会ったその日に(お試しに)ベッドまで、
という行動もとれるのに、です。
物語上は、ダルワーンにはインドから花嫁がやってきて、
2人の波長は合っていないけれど、
なんとかやっていくしかないから、
またダルワーンはウェンディにとっても、
「誠実」の象徴であるから、
ということになっています。
でも、実は二人が結ばれないことは、
初めから分かっていました。
インド(というかアジア)系の男性と金髪白人女性のベッドシーンは、
アメリカ映画のタブーだからです。
で、予想通り、
映画のラスト、
ダルワーンはウェンディに告白するのですが、
あっさりフラれます。
ダルワーンは、ここでまたしても、
アメリカ社会(=ウェンディ)に拒否されるわけです。
自分に奉仕している間はいいけれど、
調子に乗ってベッドにもぐりこもうとしないで、
ということなのでしょう。
そして映画は、この拒否を肯定しているようにしか見えません。見かけのハートウォーミング感に反して、
白人中心主義的で、
排他的な映画だと言わざるを得ないでしょう。
これが今のアメリカの気分だとしたら、
イヤですねえ。

先輩教員と

今日は、数年前に退職された、
数学科のM先生とお話をする機会がありました。
彼女によれば、
学生時代から教員時代を通じて、
50年も数学と付き合ってきたので、
退職後は、違うことをしたいと思い、
オルガンにはまっているとのことでした。
で、
彼女が通っている教会のオルガニストにもなっていると。

「でも、そのためにいろいろ練習したけど、
やっぱりバッハが一番好き」

でしょうとも!

バッハがいいことの一つは、
いろんな楽器で聞いて楽しめることです。
わたしがマリンバのバッハを初めて聞いたのは、
20年前くらいの Jean Geoffroy でしたけれど、
今は、若い演奏者もたくさんいますね。

https://www.youtube.com/watch?v=CPKUg_3_gHg

2017年11月22日水曜日

French Kiwi Juice

今日、ダンスをやっている学生から教わった、

French Kiwi Juice 

は、フランス人ミュージシャン。
彼は「好きなミュージシャンは?」と訊かれて、
まっさきにこの名前を出したのでした。
たとえば、

https://www.youtube.com/watch?v=9Gq9N-sPdYg

これはいわゆる、チルアウトに入るのでしょうね。




2017年11月21日火曜日

Je suis chez moi

明日の1年生の授業、
ちょうど直説法が終わるので、
たまにはラップ・フランセでも聞くかと思って、
今、急遽作ったプリントを、
ここでも公開します。
(ってほどのものじゃなくて、
ただ歌詞を整えただけですが。)

曲は、これです。

https://www.youtube.com/watch?v=hsOqEhMumaw

歌っているBlack M は、
ギニア系フランス人。
彼は、林間学校に子供たちを引率するモニトゥールの役です。
そして、
ここで彼が着ているTシャツには、

Justice pour Amada

とありますが、
これは、去年の夏、
つまりこの曲が発表される直前、
パリ郊外で起こった「事件」のことを言っています。

http://www.afpbb.com/articles/-/3094879

で、それを踏まえて、

Je suis chez moi (おれは自分の場所にいるんだ、おれはフランス人だ)

と歌うわけですね。

(こうした態度を、
国家主義的だと批判することもできるかもしれませんが、
それは今は措いておきましょう。)

そうそう、3分15秒あたりに、
Amadou & Mariam が(歌詞に合わせて)登場しています。
お見逃しなく!
(そしてその直前、一瞬ですが、
Black M とおそろのTシャツを着たYoussouffa の姿も!
もちろん、政治的な意味合いでしょう。)
(でもうついでに書いておくと、
真ん中辺のクルマの女性、
彼女はユモリストのAnne Roumanoff ですね。)

********************************************

Je suis chez moi            Black MAlpha Diallo

Tout le monde me regarde 
A travers mon innocence je pense qu'ils me charment 
Ma maîtresse d'école ma dit que j'étais chez moi 
Mais mon papa lui pourtant se méfie d'elle, est-elle fidèle ? 
La France est belle 
Mais elle me regarde de haut comme la Tour Eiffel 
Mes parents m'ont pas mis au monde pour toucher les aides 
J'ai vu que Marion m'a twitté d'quoi elle se mêle ? 
Je sais qu'elle m'aime

  x 2  Je suis français                       
Ils veulent pas que Marianne soit ma fiancée 
Peut-être parce qu'ils me trouvent trop foncé 
Laisse-moi juste l'inviter à danser 
J'vais l'ambiancer 
Je suis français

J'paye mes impôts moi 
J'pensais pas qu'l'amour pouvait être un combat 
A la base j'voulais juste lui rendre un hommage 
J'suis tiraillé comme mon grand-père ils le savent, c'est dommage 
Jolie Marianne, j'préfère ne rien voir comme Amadou et Mariam 
J't'invite à manger un bon mafé t'chez ma tata 
Je sais qu'un jour tu me déclareras ta flamme, aïe aïe aïe

  x 2       

Je suis chez moi (x20)

  x 2

Je suis noir    
Je suis beurre   
Je suis jaune   
Je suis blanc 
Je suis un être humain comme toi 
Je suis chez moi 
Fier d'être français d'origine guinéenne 
Fier d'être le fils de monsieur Diallo 
Éternellement insatisfait

2017年11月20日月曜日

メディアって

暴行を働いたとされる横綱を、
まさに狂ったように、
執拗に追いかけるメディア。
どうしてその勢いで、
話題の学園の理事長も追いかけないのかと、
疑問の声が上がっているようです。
ほんとにね……。

当たり年なの!?

この秋、
もう20個以上りんごを食べたと思うのですが、
なんと、
ハズレが1個もありません!
今年はりんごの当たり年、なんでしょうか?
紅玉も、早生ふじも、サンフジも、
お隣さんからいただいた秋田紅あかりも、
みんなおいしかったです。
買った店も、あちこちのスーパーで、
特定の店じゃありません。
(もちろん、なるべくおいしそうなのにはしていますが。)

りんごがおいしいと、
朝が爽やかです!

2017年11月18日土曜日

池袋詩 ~六ツ又ロータリー

木曜は「池袋学」に興奮したのでしたが、
詩の世界で池袋というと、
わたしが思い出すのは、
小熊秀雄、
山本博道、
森原智子、
の3人です。
(あと、木坂涼さんも。
彼女とは池袋で会ったので。)
3人の詩は、『東京詩』の中にも引用したのですが、
特に山本の「想い出はサンシャイン60で」は、
池袋詩の白眉ではないかと思っています。
長いこの詩の冒頭はこんな感じ。


想い出はサンシャイン60で

よもや冥途である他のどんな予感が見渡せたか
高速5号線を越えて北は光る荒川の向こう筑波山
南は5本の巨大ビルの先霞む伊豆大島まで
隙間なんてない
わずかに眼下あれが雑司ヶ谷霊園?
ギッシリと石の道、焼けたモーターが水道橋方面に落ちつづけている
六ツ又ロータリーに回る風
(……)


で、年に1度くらい、
この六ツ又ロータリーをクルマで走るときには、
いつもこの詩を思い出します。

2017年11月16日木曜日

「都市、そして池袋の今」


           (「女性には<輪郭>がある……」)

行ってきました、
東京芸術劇場での、

森山大道 × 倉石信乃
「都市、そして池袋の今」

なんというか、感動しました!

森山大道は、1938年生まれだから、現在79歳。
でも彼は、毎日のように池袋を
「ぶらぶら」して、
スナップショットを撮り続けているそうです。

「とにかく、撮らないとはじまらないでしょ!」

言うは易く、行うは難し、なんですが、
これができるからこそ、
その「感覚」は、「今」を感知できるのでしょう。
そう、彼は言います、

「写真は<今>を撮るわけです」

それは言葉を換えれば、「時間を定着」させることでもあるわけなんですね。
そしてその時間(の堆積)が、「輪郭」を生むのでしょう。
それは個人にも、都市にもあてはまるのでしょう……

また今日は、倉石さんの質問があまりに的確で、
森山さんの答えも、その分穿ったものになり、
会場はみな聞き耳を立て、
緊張感が漲っていました。
とりわけ、写真というものの無名性に話が及んだところでは、
ちょっと異様なくらい。
2人のお話を総合すると……

たとえばわたしが撮ったということはゼロにはできないけれど、
写真の本質が無名性にあることには変わりがない。
つまりイメージは「わたし」の所有物ではなく、
写真はその意味で所有性から解放されている。
写真の潜在的可能性は、そこにこそ見いだされる。
アノニマスである写真は、大文字のARTではない……

今日のクロストークは、
倉石さんのキレ味と、
森山さんの年輪がともに際立ち、
しかも示唆に富む発言に満ちた、
とてもいい会でした。
わたしも、もちろん素人として、
パリを撮りたくなりました!

「『あたらしい野生の地―リワイルディング』映画上映会+トーク」

金曜日です!
下北沢のB&Bにて。

http://bookandbeer.com/event/20171117_rewilding/

わたしは以前渋谷で見ましたが、
いい作品でした。
とにかく、「再野生化」というのが新鮮。

2017年11月13日月曜日

森山大道 × 倉石信乃 !!!


あの森山大道が、
われらが倉石信乃さんを相手に、

「都市、そして池袋の現在」

について語ります。
これはそそられます!

今週の木曜。1000円です。(安い!)

http://www.rikkyo.ac.jp/events/2017/11/mknpps0000004m8b-att/mknpps0000006eqg.pdf

『マッドジャーマンズ ドイツ移民物語』


新聞の書評で見かけて、
読んでみたのは、

『マッドジャーマンズ ドイツ移民物語』

です。
マンガです。
帯には、

「移民問題に揺れる欧州
ドイツに衝撃を与えた
社会はコミック」

とあります。
この本、すごくよかったです。

そう、「よかった」のですが、
とても胸が痛む物語です。
モザンビークから、
統一前の東ドイツに渡ったワカモノたち。
彼らは、選ばれたものとしての希望と夢を持っていましたが、
行ってみると、
彼らは単なる単純作業労働者という身分しか与えられず、
勉強もキャリアもままなりません。
しかも給料の60%は天引きされ、
これが、貯まっているものとばかり思っていたのに、
いざ帰国した時、
そのお金はどこにもないのでした。
母国モザンビークは、
激しい内戦を経過し、
ドイツはドイツで統一のごたごたがあり、
そうしたしわ寄せが、
何年もまじめに働いた彼らに集中したのです。
(いや、そうじゃないのかも。
内戦は、国内に残った人たちに、
もっともっと過酷なものを突き付けたわけですから。)

絵もいいし、翻訳も抑制が効いていて読みやすいです。
これはお勧めできます。
こういう本を刊行した出版社も、素晴らしいです。

2017年11月12日日曜日

『ママはレスリング・クイーン』

今読んでいる本がかなり難解なので、
こういう時の映画はやわらかいものを、
ということで選んだのがこれ。

『ママはレスリング・クイーン(Reines du ring)』(2013)

https://www.youtube.com/watch?v=vPYDdzxPf8c

まあ、たわいない話ではありますが……

ヒロインは4人の女性たち、
刑務所帰りで、一人息子は里子に出しているローズ、
狙った男は必ず落とす、ジェシカ、
肉切り包丁を手放さない、強面のヴィヴィアンヌ、
浮気する夫に愛想をつかす、子持ちの組合委員長コレット、です。
この全員が、スーパーの店員で、
肉売り場のヴィヴィエンヌ以外の3人は、
みんなレジ係です。
この彼女らが、小さなきっかけから、
プロレス(catch)の世界に飛び込むお話。

年長のコレット役は、なんとナタリー・バイが。
全然イメージとは違いますが、
楽しんで演じているように見えます。
セクシー系という役どころのジェシカは、オドレ・フルロ。
そうです、『最強のふたり』で、
ドリスが言い寄ったレスビアン女性、マガリを演じた彼女です。
そして主演は、ローズを演じたマリルー・ベリ。
彼女は、何と言ってもこの映画の印象が強烈です。

http://tomo-524.blogspot.jp/2017/06/vilaine.html

そうそう、チョイ役ですが、
ビウーナも友情出演していました。
彼女のスーパーの店員です。

この映画は、B級痛快アクション映画であり、
そういうものとしては、十分楽しめると思います。
(細かいことを言えば、
ジェシカが好きになるのは黒人男性であり、
ちゃんとアラブ系ビウーナにも出てもらって、
政治的な正しさを確保することに腐心しているのは感じました。
特に、4人が戦う相手がメキシコ女性レスラーなんですが、
試合前にお互い罵詈雑言を浴びせ合う場面で、
さんざん「メキシコ女」をこき下ろした後、
でもあたしは外国人嫌いじゃないからな!
とヴィヴィエンヌが付け加える場面などは、
とても気を遣ってると感じました。
でもまあ、そうじゃないと、
観客も醒めてしまいますから、
それはいいことですね。)

「架橋できる存在に」

内田樹さんによる、
吉本隆明に関わるある本についての書評です。
彼は、高校生の時に、
吉本の本に出合ったそうです。

http://blog.tatsuru.com/

「大学生になって(吉本を)読んだ場合には、
大衆は「原像」として概念的に把持される他ないほど
すでに遠い存在になっていただろう。
だが、高校生は生活者大衆でもないし、知識人でもない。
まだ何者でもない。
それでも、親に内緒で退学届けを出したり、
家を出て働くことくらいはできる。
この特権的なポジションを利用して、
大衆でも知識人でもない、
その二つを架橋できる存在になろうと私は思った」

そして彼はほんとに高校を退学し、働き始めます、
ただそれは、長くは続かなかったようですが。
「都会の不良少年」として、
高校時代を送ってしまったわたしとしては、
あまりに大きな差を感じます。

わたしの大学時代、
友人たちとの間でよく話題になった吉本の本と言えば、
これは圧倒的に、
『言語にとって美とはなにか』
でした。
もちろん、よくはわかっていなかったんですけどね。

2017年11月11日土曜日

「上位3名の資産が国民50%」

これって……

「米国で進む富の集中、上位3名の資産が国民50%の合計以上に」

https://forbesjapan.com/articles/detail/18439

いくらなんでも、ひどすぎますね。
しかも、

「米国人のおよそ5人に1人は資産額がゼロ、
もしくはマイナスとなっている」




ケン・ローチ関連 × 2

ケン・ローチの作品を1つ、

『1945年の精神』(2013)

と、ケン・ローチに関わる作品を1つ、

『ヴァーサス/ケン・ローチ映画と人生』(2016)

https://www.youtube.com/watch?v=Ip8wvVmz6yU

を見てみました。

前者は、
「揺りかごから墓場まで」
で知られる、第2次大戦後のイギリス労働党の活動を、
というかその精神を、克明に伝えています。
この大戦前の1930年代、
イギリスはひどい不況にあえぎ、
街には、失業者が溢れていました。
それは、21世紀とは違う、
絶対貧困に近い状態でした。
で、
大戦に勝ったイギリスでしたが、
そのとき多くの人が思ったこと、
それは、戦前の生活に戻るのだけは嫌だ、
ということでした。
戦争中に国は自分たちを雇っていたのだから、
戦後も、そうできないはずはない、
そしてそのためなら、
イギリスを勝利に導いたチャーチルさえ、
落選させても構わない……
そして実際チャーチルは落選し、
労働党の政権ができたわけです……

後者は、
ケン・ローチの人となりを表現しながら、
彼のたくさんの作品を、
その時代と彼の人生の中に置き直して見せた映画です。
とても見易いものでした。

2本とも、できのいいドキュメンタリーでした。
勉強になりました。

『フィッシュ・タンク』

『子どもたちの階級闘争』の中で、

「英国の下層のティーン文化を知りたければ
若干ステレオタイプ的とはいえかなり正確に描かれていると思う」

とされた映画、それが

『フィッシュ・タンク』(公開年:英 2009 / 日 2012)

です。見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=QIkmk6imcZ8

最初は、上に挙げたような理由で見始めたわけですが、
映画としてもおもしろかったです。
(ほんの少~しだけ、長い気もしましたが。123分です。)

イースト・ロンドンに暮らす少女、ミアは15歳。
母親と妹との3人暮らし。
母の新しい恋人コナーは、
ミアにとっても魅力的。
(おそらく、父性的、男性的、両方のレベルで。)
学校にも行かなくなり、
仲が良かった女友だちとも喧嘩別れし、
ミアの希望はただ、ダンサーになることだけ。
そんなときちょうど、
女性ダンサー募集の張り紙を見つけ、
そこに応募してみるのですが、
オーデション会場に行ってみると、
それは実は、ストリップまがいのダンサーの募集で……

safe を「サイフ」と発音するミア。
いつもジャージを穿き、
人からの批判には犬のように吠えて返し、
おまえは中絶するつもりだったと母親に言われ、
人を、そして自分を愛したいのにできないミア。

ミアが今頃どうしているのか、
気になります……。

2017年11月9日木曜日

『リフ・ラフ』

『わたしは、ダニエル』がおもしろかったので、
やはりイギリスの労働者を描いた作品、

『リフ・ラフ』(1991)

を見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=pDIWuV8gz-4 (冒頭)

これは、刑務所帰り、
と言っても優男のスティーヴと、
歌手を夢見てオーディションに通うけれど、
家賃もままならないスーザンの物語です。
そう、それはそうなんですが、
それと同じくらい、
スティーヴと、彼が働く建設現場の仲間たちとの、
連帯と言ってもいい付き合いの物語でもあります。

公開が1991年ですが、
ということは、
サッチャーによるネオ・リベ的政治がちょうど10年経ち、
そのしわよせがスティーヴたち「底辺労働者」に、
激しくのしかかっていた時代です。
サッチャーは、劇中で、
「あのマーガレット」と呼ばれています。

思い出すのは『パレードへようこそ』です。

http://tomo-524.blogspot.jp/2016/09/blog-post_99.html

こちらもまた、「マーガレット」の政治が描かれていましたが、
時代的舞台は1980年代ですから、
この『リフ・ラフ』より少し前の時代を扱っていたことになります。

この、サッチャー(とレーガン)の1980年代というのは、
今の世界の一つの大きな出発点である気がします。
その時代、
わたしは主に大学院にいたのですが、
「文学」をやっていて、
そうした世界の動きの大きさにまったく気づかず……
もっと社会を見るべきでした。

そういうバカな院生と違って、
ケン・ローチ監督は、
いつも社会のことを考えていたわけですね。

2017年11月7日火曜日

セネガル

ワールド映画のゼミでは、
フランス映画はほとんど見てこなかったのですが、
今年は、『最強のふたり』を見ています。
それは、まず、
『となりのイスラム』をブック・レポートにしているので、
この本の中にも出てくる『最強のふたり』を見せるのは、
両者を理解するための相乗効果があるからです。

内藤先生は、この本の中で、
ドリスはきわめてイスラム的な人間だ、と指摘されています。
実際、ドリスのモデルとなったアブデルはアルジェリア系ムスリムです。
で、アブデルが白人であるのに対して、
オマール・シー演じる、映画の中のドリスは黒人なわけですが、
実は映画のほうでは、ドリスはセネガル出身だとされています。

(この「セネガル」という固有名詞、
映画の字幕ではカットされています。

Ils(ドリスの育ての親)sont venus me chercher au Sénégal
quand j'avais 8 ans.

というドリスのセリフがあります。)

で、セネガルは、95%の国民がムスリムなので、
ドリスもまた、とても高い確率でムスリムだと考えられるでしょう。
内藤先生の指摘は、事実としても、正しいと言えると思います。

そして、ゼミでよく見る1本に、『扉をたたく人』があるのですが、

https://www.youtube.com/watch?v=Rn3K199kv6c



ここにも、セネガル出身の、ゼイナブという女性が登場します。
彼女は、NYにいる不法移民、という設定です。
ここで、セネガルが「線」になってくるはずです。

ちなみに授業では、
Little Senegal の冒頭も見せます。

https://www.youtube.com/watch?v=zHYXCKjkWmE&t=2010s

http://tomo-524.blogspot.jp/2011/04/little-senegal.html

主人公は、奴隷積み出しの島であった、
ゴレ島のガイドなわけです。

もちろん、これらだけでセネガルのイメージを語ることはできません。
でも、第一歩として役立ってくれれば、と思っています。

2017年11月5日日曜日

あの二人から!

先日、わたしの誕生日に、
一通の誕生日カードがメールされてきました、
Neymar Jr. と Mbappé から!
それがこれです。


Paris Saint Germain に登録してあったので、
送られてきたんですね。
そんなこと考えてなかったので、
ちょっと嬉しい驚きでした!

I, Daniel Blake

ケン・ローチ監督の、
なんと50本目の作品、

『わたしは、ダニエル・ブレイク』

を見てみました。

http://www.longride.jp/danielblake/

↑ 公式HP(予告編も)

ダニエルは、長年大工として働いてきた実直な男。
精神を患った妻を長く介護し、
彼女がなくなった後は「抜け殻」になり、
しかもその後、
彼自身が心臓発作にも襲われ、
医者から、働くことを禁じられてしまいます。けれど、
国は彼に、
働けない人たちのための「支援手当」を払おうとはしません。
で仕方なく、彼は求職者手当の申請を試みるのですが、
さまざまな書類、手続き、証明書……が要求され、
それは、ほとんど個人の尊厳を踏みにじるものでした。
そして、彼は言うのです。

When you lose your self respect, you are done for.
自尊心を失ったら、終わりなんだ。)

この映画のすべての背後にあるのは、
イギリス政府が進める緊縮政策です。
この映画は、たしかに「心温まる」ものかもしれません。
しかし、ちがうのです。
この、諸悪の根源とも言うべき緊縮政策こそ、
この映画のすべてが指さしているものだと感じます。

わたしは、とてもいい映画だと思いました。
ケン・ローチ監督の作品は、
もちろんいくつかは見てきましたが、
ちゃんと見直す必要がると思いました。

2017年11月3日金曜日

Nice catch !

WS後の、
ドジャースの選手たちへのインタヴューを、
YouTubeであれこれ見ていたら、
ふと出てきたのがコレ。

https://www.youtube.com/watch?v=W1ofxTxlrlg

Nice catch !

『女猫』

1958年の映画、

『女猫』(La chatte)

を見てみました。
(動画が見つかりませんでした。)

1943年、ドイツ占領下のパリ。
レジスタンスに加わっていた夫を亡くした妻は、
代わって自分が活動に入ります。が、
彼女がたまたまバーで仲良くなった男は、
(スイスの新聞記者というのは嘘で)
ドイツのスパイでした。
そうとも知らず、レジスタンス組織の秘密を漏らす彼女。
でも、二人は本気で魅かれ合い、
スパイも彼女を助ける道を探るのですが……
というお話。

面白くないわけではないのですが、
この映画、要は、
主演のフランソワーズ・アルヌールを見せるのが主眼です。

<以下ネタバレ>
このヒロインは、
本筋とは外れたところで、
ストッキングを脱がされる場面や、
身体検査をされる場面があり、
しかも最後は、裏切り者として、
仲間の手で射殺されてしまいます。
つまり、
肉体的魅力を発散する女性として描かれながら、
その描き方はややマゾヒスティックで、
最後には殺されてしまう……となれば、
これはやはり、ミソジニー的だと言わざるを得ません。

監督は、『筋金を入れろ』の、アンリ・ドコアンです。
(今ちょっと調べたところ、
『筋金を入れろ』はDVD化されていないようです。
ジャン・ギャバンが出てるのに……、ちょっとびっくり。
フランス語版はもちろんあります。
https://www.amazon.fr/Razzia-sur-Chnouf-Lino-Ventura/dp/B002DGQBR0/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1509715630&sr=8-1&keywords=Razzia+Sur+la+Chnouf
そういえばこの映画も、
(遠い記憶なのであいまいですが)
ホモソーシャルだった気がします。

2017年11月2日木曜日

3本

ダルヴィッシュ、残念でした……。
捲土重来を。



このところ、
「パリ」と名がつく日本版DVDを何本か見てみました。

『パリ、ディストラクション』
これはパニック映画。
ゼネストの影響でごみ収集車が来ないパリで、
異常発生したネズミが媒介する伝染病が発生。
ヒロインである医師の娘もネズミに噛まれ……

『パリの大晦日』
ドキュメンタリー風のロードムーヴィー。
ケルン、パリ、バルセロナ、と、
恋人を追ってゆくアジア系の青年の物語。
カメラはたびたび固定され、
ロードムーヴィーでありながら、
登場人物たちは固定されたカメラの中からなかなか出られません。

『パリ、恋人たちの影』
ドキュメンタリー映画を作ろうとしてる夫婦。
浮気中の夫は、
妻が浮気中であることを知ると、
自分のことは棚に上げて妻をなじります。
で、結局は夫の不貞も露見し……

三者三様ですが、
わたしには、もう一つピンときませんでした。

2017年11月1日水曜日

『日本の夜と霧』

今日の大学院ゼミでは、
大島渚監督の『日本の夜と霧』(1960)を見ました。

https://www.youtube.com/watch?v=FyHUnzwZo4Y

有名な作品なので、
調べればいろいろ出て来るに違いありませんが、
今回、大島監督作品はあくまで「補助線」なので、
まずは、ほとんど周辺知識なしで見てみました。

1960年制作で、その年の安保運動を扱っているのですが、
事実は、そのもう一つ上の世代こそが、
ほんとうの主役のようです。
つまり、安保デモをする現役大学生たちの、
10歳ほど上の活動家たちです。

先日見た、同じ大島監督の、
同じ年に撮られた作品、『青春残酷物語』と、
この構図はパラレルになっています。
『残酷」では、
「上の世代」が渡辺文雄と久我良子、
「現役世代」が川津祐介と桑名真由美、
でしたが、
『日本の』では、
「上の世代」が渡辺文雄と小山明子、
「現役世代」が津川雅彦と桑名真由美、
となっています。
(実際には、彼ら以外にも多数います。)
そして、どちらの作品のどちらの世代のカップルも、破綻します。
また、『日本の』は、
渡辺文雄と桑名真由美の結婚式を舞台としているのですが、
この二人は、実は別々の世代に属していて、
この二人もまた、今後の幸せを予感させはしません。
二つの作品は、ともにペシミスティックで、
ほとんど虚無的でさえあります。(ただ、その虚無が煮えたぎっているところが、
大島の個性なのでしょう。)

そして大島は、『日本の』を撮ったすぐ後に、
小山明子と結婚します。
彼に中の虚無は、
このとき、現実とある種の和解を果たしたのでしょう。